F1 Bar

マリオ・アンドレッティ - 素晴らしきレース人生

Mario Andretti マリオ・アンドレッティ

Mario Andretti マリオ・アンドレッティ

1940年2月28日、イタリア・モンタナ生まれ。

  • F1デビュー: 1968年アメリカ・グランプリ
  • 出走: 128回
  • 優勝: 12回
  • ポールポジション: 18回
  • ワールドチャンピオン: 1回
マリオ・アンドレッティ

もし仮に、歴代のグランプリ・ドライバーの誰かひとりになれるとしたら、わたしはマリオ・アンドレッティを選びたいと思います。
多くのレーシング・ドライバーにとって、彼のようなレース人生は理想なのではないでしょうか。

第二次大戦後、イタリアから家族と共にアメリカへ移住したアンドレッティは、19歳でレース活動を開始。

1964年、24歳でアメリカのトップ・カテゴリーに参戦し、’66年と’67年にシリーズ・チャンピオンとなった後、1968年のアメリカ・グランプリにロータスでF1に初挑戦します。

このF1デビュー戦で、いきなりポール・ポジションを獲ったアンドレッティは、決勝でもノーズ・カウルが壊れてピットインするまで、ジャッキー・スチュワートと激しいトップ争いを演じるなど、その実力を世界に知らしめました。

ただ、彼の最大の関心はF1よりもアメリカのレースにあり、1969年もアメリカを中心に活動し、F1へはスケジュールの合い間をぬって、3レースに出場したのみでした。
この1969年、彼は念願だったインディ500を初制覇し、3度目のシリーズ・チャンピオンにも輝いています。

1970年もF1参戦はマーチから出場した5レースのみでした(スペインで3位入賞)。

アンドレッティのデビュー・レース ワトキンスグレンでのアメリカ・グランプリ

1971年と’72年の2年間は、フェラーリから、計12レースにエントリーし、その最初のレースとなった’71年南アフリカ・グランプリでF1初優勝を飾りました。

アンドレッティが、F1にほぼフル参戦するのは1975年。
パーネリー・ジョーンズ率いる新興チーム「パーネリー」からの出場でした。が、成績はふるわず僅か5ポイントの獲得に終わりました。

そして、1976年、ロータスに移籍すると同時にF1での活動に専念します。
ここ数年不振だったロータスでしたが、彼は多くのテストをこなし、ボスのコリン・チャップマンと共にハード・ワークをこなした結果、シリーズ終盤に調子を上げ、最終戦、富士スピードウェイで開催された初のF1日本グランプリで、ロータスでの初優勝を果たしました。

勢いに乗ったアンドレッティとロータス・チームは、1977年、5勝を挙げランキング3位に入り、1978年を迎えます。

この年、ウィング・カーの完成型ロータス79は、他のマシンを圧倒する速さを発揮し、マリオ・アンドレッティとチーム・メイトのロニー・ピーターソンはシリーズを席巻。アンドレッティは初のワールド・チャンピオンに輝きます。
ただしこの年は、彼が後年最高のパートナーだったと話す、ロニー・ピーターソンを事故で失う悲しさも経験しました。

1981年までF1にとどまった後、再びアメリカに戻ったアンドレッティは、息子のマイケル、ジェフ、甥のジョンらと共にレースを楽しむように戦いました。

ミルウォーキーで表彰台を独占したマイケル(中央)、ジェフ(左)、マリオのアンドレッティ・ファミリー

元々彼には、他のF1のスーパースターたちのような緊張感や悲壮感が、あまりなかったように感じます。
F1に参戦中も、いつもサーキットにはアメリカから呼び寄せた家族を連れて来ており、常にリラックスしているように見えました。

マリオ・アンドレッティは、インディ・カー・シリーズのタイトルを(4度)獲得し、インディ500に勝ち、デイトナ500にも勝ち、そしてF1世界チャンピオンにも輝くという離れ業を成し遂げています。

また、現役時代、スケジュールのバッティングするインディ500とモナコ・グランプリの両方に出場するため、 インディで走ったあと、飛行機で大西洋を渡り、次の日はモナコを走り、さらにトンボ帰りしてインディを走るという、別の意味での離れ業も演じています。

さらにル・マンでは優勝こそ逃したものの、1983年には息子マイケルと組んで3位表彰台を獲得しています。

マリオ・アンドレッティは、数多くのレーシング・ドライバーの中にあって、並外れた偉業を達成し、しかも、大きなケガや挫折もなく、家族と共に充実したレース人生を過ごすことの出来た非常に稀な存在です。

このエントリーをはてなブックマークに追加