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ネルソン・ピケ - 女神を見方につけたチャンピオン

Nelson Piquet ネルソン・ピケ

Nelson Piquet ネルソン・ピケ

1952年8月17日、ブラジル・リオデジャネイロ州生まれ。

  • F1デビュー: 1978年ドイツ・グランプリ
  • 出走: 204回
  • 優勝: 23回
  • ポール・ポジション: 24回
  • ワールド・チャンピオン: 3回
ネルソン・ピケ

ネルソン・ピケ、本名ネルソン・ソウト・マイオールと、F1で素晴らしい思い出を共有したブラバム・チームとの出会いは意外と古く、1974年のインテルラゴス・サーキットが最初でした。

こんな逸話があります。
当時まだブラジル国内でレース活動を始めたばかりのネルソン青年は、サーキットのゲートをくぐる、ある一台の車を捕まえ「中に入りたいんだけど、トランクに隠れていい?」とたずねました。「いいよ」と答えたその車の運転手はなんとブラバムの新進気鋭のデザイナー、ゴードン・マーレイでした。

初めて見るF1に心を奪われた青年は、彼のレース活動に反対する医師で国会議員でもある父親の目から逃れるため、母方の姓、ピケと名乗り大好きなレース活動にのめり込んでいきます。

それから4年後の1978年、有能な若手ドライバーを求めてF3のレースを観戦していたマーレイは、ブラジルからやって来た、めっぽう速いドライバー、ネルソン・ピケと再会します。

1979年からブラバム・チームの一員として戦うことになったピケは、その前年、すでにエンサインとプライベートのマクラーレンでF1を5レース走っていました。
中でも、イタリア・グランプリでは、ロニー・ピーターソンの事故を目の当たりにし、F1の世界に入って早くも、今後、自身がレース活動を続けていくのか、あるいは、この狂ったような世界から身を引くべきかを、自分自身に問いかけることになりました。

翌年、ブラバムでの最初のチーム・メイトとなったニキ・ラウダは、当時のピケについて、「彼は、レーシングカーで死ぬのも仕方のないことだとさえ考えているようだった」と語っています。
F1での成功を夢見るネルソン・ピケは、レースにすべてを賭ける決心をしていたのです。

’79年ブラバムに移籍 ラウダとチームメイトに

ブラバム・チームはここ数年間、搭載するアルファロメオ・エンジンに手を焼き、実りのないシーズンを過ごしてきました。しかし、ピケが新たに加入したそのシーズン中に、エンジンをコスワースに変更し、劇的に戦闘力が向上、更に、大先輩のラウダからは、F1で成功するための大切な要素を学び取っていきました。しかも、シーズン終盤には、そのニキ・ラウダの突然の引退で、チームのナンバーワンドライバーの座さえ手に入れたのです。

F1にデビューし、3度のワールド・チャンピオンを獲得したネルソン・ピケは、この後も、人生を左右するいくつかの重要な場面で、決定的な幸運を引き寄せることとなります。

実質デビュー2年目となる1980年。
条件の整ったブラバムでシーズン3勝を含む10回の入賞で、ランキング2位の好成績をおさめました。

’81年 ロイテマンとの争いの末 初の世界チャンピオンを獲得

翌1981年、持ち前の速さだけでなく、ラウダからレースに勝つためのしたたかさをも学んだピケは、ウィリアムズのカルロス・ロイテマンとチャンピオン争いを展開します。

シーズン終盤、残り3レースとなったイタリアで、エンジン・トラブルにより6位に終わったピケは、残す2レースをロイテマンに対し3点差で追いかけるかたちとなり、ピケのチャンピオン獲得の可能性は決して高くないように思えました。
事実、最後の3レースで、ピケは5ポイントしか挙げることが出来なかったのですが、ランキング・トップのロイテマンは、それ以上の不成績で、ピケが最終戦で逆転し、初のワールド・チャンピオンを獲得したのです。

1982年は、新たに投入したBMWターボの熟成に、1年が費やされた年でした。

続く1983年、フラット・ボトム元年となったこの年、ダウンフォースを得るために、各マシンに装着された巨大なウィングは、今後のF1が、ターボ・エンジンによる大パワー時代へと突入していくことを、明確に告げるものでした。

フラットボトム元年 BMWターボで2度目のワールド・チャンピオン

この時点では、ポルシェとホンダのターボ・エンジンが大活躍するのは、翌年以降のことであり、結果的に’83年のタイトルを獲得したブラバム・BMWにとって、与えられたチャンスはこの年以外なかったと言えるかも知れません。
その上、シーズン前半を快調に飛ばしていたルノーのアラン・プロストが、終盤に入り思わぬ失速。
着実にポイントを重ねたピケが、再び最終戦で逆転し、2度目の世界タイトルを手にしました。

続く’84年と’85年は、マクラーレン・ポルシェの活躍や、ウィリアムズ・ホンダの台頭により低迷。ただ、’84年はポール・ポジションを9回も獲得するなど、相変わらずの速さを見せつけました。

そして1986年、ホンダの目覚しい進歩により、今や最強チームとなったウィリアムズ・ホンダに移籍。進境著しいナイジェル・マンセルとパートナーを組みます。

このマンセルは、ピケにとって生涯最大のライバルとなっていきます。これまでのピケのレース人生において、同じマシンで彼より速く走れたドライバーなどいなかったのです。

ところがマンセルはめっぽう速いドライバーでした。
過去2度のワールド・タイトルを誇るピケと、野心にあふれたマンセルは、互いに強烈なライバル心を抱きはじめます。

しかしこの年、圧倒的な速さを発揮したウィリアムズ・ホンダのピケとマンセルでしたが、互いにチャンピオン・シップ・ポイントを奪い合ったため、シーズンが終わった時には、ライバルのアラン・プロストにチャンピオンの座を持ち去られてしまっていました。

ピケとマンセルのライバル心が、もはや敵愾心にまで発展した1987年シーズンは、マンセル優勢で進んでいきます。
終盤、チャンピオンを賭けて、初めてグランプリが開催される鈴鹿に乗り込んだふたりの争いは、あっけないかたちで幕が下ろされることとなりました。

’87年 ウィリアムズ・ホンダで3度目のワールド・チャンピオンを獲得

予選初日。アタックをするマンセルのウィリアムズ・ホンダがS字で激しくクラッシュ。
マンセルはヘリコプターで病院に運ばれ、マンセル有利だったはずの鈴鹿が、一転、ピケの3度目のワールド・チャンピオン獲得の舞台となったのです。

ピケが新人だった1979年。偉大な先輩ニキ・ラウダから、速く走るだけでは世界チャンピオンになれない、リタイアするリスクを避け、常にポイントを得ることを考えなければならない。ということを学んだネルソン・ピケは、スピードだけではなく、常にライバルに不運があった時は、いつでもそのチャンスを掴めるよう、最善の場所に身を置くことを心がけていたのです。

3度の世界チャンピオンという、彼の輝かしい成績は、多分に幸運に恵まれたものとはいえ、人生を決める大舞台で、それを掴み取れる場所に居合わせる人は、そう多くはいないのです。

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