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ニキ・ラウダ - 異色のF1ドライバー

Niki Lauda ニキ・ラウダ

Niki Lauda ニキ・ラウダ

1949年2月22日、オーストリア・ウイーン生まれ。

  • F1デビュー: 1971年オーストリア・グランプリ
  • 出走: 171回
  • 優勝: 25回
  • ポールポジション: 24回
  • ワールドチャンピオン: 3回
異色のF1ドライバー ニキ・ラウダ

ニキ・ラウダは、F1通算25勝、ワールド・チャンピオン3回という素晴らしい成績だけでは語りきれないほど、F1の世界で独特な存在感を放っていたドライバーでした。

他人と違う、ということは他人と考え方が違うということを意味します。
変わった考え方の持ち主は、やはり変わった経歴の持ち主でした。

ラウダは17歳の時、両親の反対を押し切り、モータースポーツの世界に入りました。

まずはローンを組んで購入したミニ・クーパーとポルシェ911でヒルクライムに挑戦します。
その後、サーキット・レースへ進み、フォーミュラVに参戦。好成績をおさめた後、F3へ。

ところが、あまりにも激しく、危険なF3の世界にいることに疑問を感じたニキ・ラウダは戦いの場をF2へと変更します。

この時の費用を彼はなんと銀行からの借金で賄っています。
通常、銀行がレース活動に、しかも、名もない若手ドライバーのレース活動に融資をするなど考えられないことですが、やはりラウダにはこの頃から既に、人をその気にさせる独特な魅力と、話術を持っていたのでしょう。

マーチ・チームからF2に参戦し、好成績を残していたニキ・ラウダは、同じくマーチからグランプリデビューを果たします。

しかし、依然自ら資金を提供し、シートを確保していた彼は、レース前に記者会見し、自分は銀行からお金を借りてレース活動をしていること、3年以内に 好成績をおさめ、その資金を返済しなくてはならないこと、ビジネスとしてレース活動を成功させなければならないことなどを発表したのです。

チャンピオン・ナンバー「1」を付けて走る’76年のブランズハッチ

F1の世界では、ドライバーがシートを確保するために持参金を用意することは決して珍しいことではありませんが、それをスポンサーからではなく、自らの借金で賄い、しかも、わざわざ発表してしまうなどは、ニキ・ラウダ以外には考えつかないことでしょう。

1972年、マーチから本格的にF1参戦し、’73はBRMから出場しましたが、性能の低いマシンに苦しみ、期待された結果を残すことは出来ませんでした。

ところが翌1974年。彼は突如フェラーリへと移籍します。
実力が定かでない若手ドライバーが名門フェラーリへ移籍するというニュースは、当然大きな話題となったわけですが、ここでもやはりラウダは、その特異な才能を発揮したようです。

彼はBRMでのチーム・メイトで、元フェラーリ・ドライバーだったクレイ・レガツォーニを通じ、フェラーリとコンタクトをとり、自ら用意した資料を持ってフェラーリの経営陣に自分を売り込んだのです。

このあたりはF1ドライバーなのか、ビジネスマンなのか、とにかく普通の選手にはない特異な才能を持っていたことは確かです。

フェラーリに移ってからのラウダは持ち前の話術と経営的手腕で、チームを掌握。目標に向かってチーム全員を鼓舞し、移籍2年目の1975年には、ポール・ポジション9回、優勝5回で初のワールド・チャンピオンに輝きました。

連続チャンピオンが期待された1976年は、ニュルブルクリンクで例の大事故に遭い、惜しくもタイトルを逃しますが、1977年には、2度目のチャンピオンを獲得しています。

一度引退したラウダが82年F1に復帰(写真は83年)

1978年フェラーリからブラバムに移籍したラウダは、翌1979年、カナダ・グランプリの予選途中に「航空会社を設立し、その経営にあたる」と突如引退。
ピットには彼のヘルメットとレーシング・スーツが脱ぎ捨てられたままでした・・・。

1981年、ラウダ航空の経営は順調でしたが、規制の多い業界で、彼の思うような経営ができずにいたラウダに、マクラーレンのロン・デニスとスターを欲しがっていたマルボロが復帰を要請、これを受け入れたラウダは1982年にF1に戻ってきました。

ポルシェのターボ・エンジンが威力を発揮した1984年には、自身3度目となるタイトルを獲得し、翌1985年、波乱のレース人生にピリオドを打ちました。

普通のF1ドライバーと少し肌合いの違うニキ・ラウダの言動は、それだけに魅力的でもあり、同時に批判の対象でもあったわけですが、彼ほど自らの才能を信じ、自ら道を切り開き、批判を恐れず信念のままに進んできた人は、彼以前もその後も、他に類を見ません。

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