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アラン・プロスト - 敗北を認めなかった理由

アラン・プロスト
アラン・プロスト(’84年)

1988年、既に2度のワールド・チャンピオンを獲得し、自らの持つグランプリ最多勝記録を更新中のアラン・プロストにとって、アイルトン・セナという若いドライバーをチームメイトに迎えることは、決して悪い話ではなかったはずです。

むしろ、それまでのチームメイトだったステファン・ヨハンソンやケケ・ロズベルグよりもマシンに対する理解度があり、速さもあるセナの方が、自分をサポートするのに相応しいと思っていたかもしれません。

プロストのレース人生は、この先も前途洋々だったはずです。
ところが、アイルトン・セナというドライバーは、プロストのこれまでのチームメイトやライバルたちとは、まったく違う存在となっていきます。

若く、野心にあふれ、レースに人生のすべてを捧げていたセナは、マクラーレン・ホンダという最強マシンを得たこの年、他のドライバーを寄せ付けない圧倒的な速さを発揮しはじめます。

シーズンの前半こそは、速さはあるものの、まだ荒削りなセナに対し、プロストは巧みなレース運びでポイント争いをリードしていきます。
しかし、セナの学習能力の高さは驚異的でした。失敗を確実に成長の糧とするセナは、急速にプロストの地位を脅かしはじめます。

勢いに乗ったセナは、この88年シーズン、僅差でプロストを破り、初のワールド・チャンピオンを獲得します。
もっとも、プロストにとっては過去の輝かしい経歴が、このひとつのシーズンの結果のみで判断されるわけはなく、本当の勝負は翌年以降へと持ち越されていきます。

明けて1989年、F1の世界に君臨するプロストにとって、明らかにセナの存在は敵へと変わっていきます。

一方のセナにとっては、よりはっきりとプロストを倒すことで、自分が名実共にナンバー1だということを証明しなくてはなりません。
両者のプライドは激しくぶつかります。

’88年 オーストラリア・グランプリ セナを従え優勝

ところが、成績を含め、速さを表すあらゆるデータが、プロストよりもセナの方が上であることを証明しはじめます。

89年シーズン、プロストは、彼を取り巻く現実から、自分が敗者であることを突きつけられます。
新旧の王者の対決は、もはや誰の目にも明らかでした。ナンバー1はセナ・・・。

しかし、プロストは、ここで過去に例のない行動にでます。
彼はマスコミを前にマクラーレンチームとホンダを痛烈に批判し始めるのです、「チームは自分とセナを公平に扱っていない、セナにより速いマシンを与えている」と。

ホンダのエンジニアがコーナリング・スピードの違いやスロットル開度、エンジン回転数など、セナとの差を表すデータを見せても、プロストは納得しません。
自分がセナより遅いのは、あくまで「マシンに問題があるからだ」、と主張するのです。
この当時、プロストのこの態度を見て、多くのファンがプロストから離れていきました。
スポーツマンらしくない、往生際がわるい、といった理由です。
セナ・ファンが爆発的に増えたのもこの頃です。

’89年日本グランプリ 互いの敵愾心が鈴鹿のシケインでぶつかる

批判ばかりを繰り返すプロストに対し、多くを語らず、黙々と自らの仕事に専念しているセナの姿は、誰の目にも魅力的に映りました。

しかし、わたしは、プロストのこの態度を見て、彼の偉大さと、自分自身の弱さを痛感しました。

この当時、プロストにとって、周りの存在のすべてが彼を否定していたはずです。
もし、この時プロストがプライドを捨て、負けを認め、周囲に迎合していれば、F1の世界はプロストにとって多少なりとも居心地のいいものになっていたことでしょう。

しかし、プロストは周りのすべてが彼を否定しても、彼自身だけはそれを認めませんでした。
彼は、たったひとりで、自分を否定するすべての現実と戦っていたのです。

負けを認めてさえいれば、どれほど楽だったことでしょう。
弱気になったこともあったはずです。
でも、彼は、負けを受け入れようとする弱気な自分を逆に叩きのめしたのです。

最大のライバルであり最大の理解者(?)だったプロストとセナ

負けを認めれば、もうこの世界にいる意味がなくなるのです。
彼は、こんな状況の中でさえ、戦い続けようとしたのです。

プロストの行為には賛否両論あることでしょう。彼の行為が正しかったと言うつもりもありません。
確かに、プロストはセナとの戦いには負けました。
しかし、自分自身には負けなかったと、わたしは思っています。

「この世界、仲良くやっていくには厳しすぎる」と語っていたセナも、きっと、プロストの孤独な心中を察していたような気がします。

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