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ナイジェル・マンセル - 続けることの大切さ

ナイジェル・マンセル ウィリアムズFW11
ナイジェル・マンセル

F1で世界チャンピオンを獲得した多くのドライバーの中にあっても、ナイジェル・マンセルのキャリアは異例です。
彼は普通の環境に育ち、苦労を重ねながらレース活動をし、数々の逆境をはねのけて世界チャンピオンになりました。

F1界のスーパースターたちと比べて、一見風采の上らないこの「普通の人」は、いったい何を持っていたのでしょう?

ヨーロッパや南米の裕福な家庭に育った多くのドライバーと違い、マンセルはイギリスのごく一般的な家庭に育ちました。
学校を卒業したマンセルは、昼は自動車関連部品の会社、ルーカス・エアロスペースで働き、夜は窓拭きのアルバイトをして、カートレースのための資金を稼ぎました。
後にいつもグランプリの場に姿を見せることになるロザンヌ夫人と結婚したのは18歳の時、彼女はマンセルと共に苦しい下積み生活を味わうことになります。

マンセルのレース活動を支えるために、ロザンヌは服も買えず、休みのない毎日を送りました。
こうして資金を作ったマンセルは、1976年、ようやくフォーミュラ・フォードに参戦開始。11戦5勝の好成績をおさめます。
しかし、この翌年、マンセルがのちに「レース人生最悪の時期」、と語る辛い時期を経験します。
ブランズハッチのレースでクラッシュし、首の骨を折ってしまったのです。
3週間まったく意識のなかった状態から目覚めたナイジェル・マンセルを、医者は非常にラッキーなケースだ、と言いました。

’79年 ロータスのテストを受けるマンセル コーリン・チャップマンと

この入院中、見舞いに来る知人も友人もなく、借金だけを抱えたマンセルを支えたのは妻のロザンヌでした。
その彼女も、夫の借金返済のために働いていたので、週末しか見舞いに来ることが出来ませんでした。
後年われわれが目にするマンセルの奥さんに対する理解し難いほどの思い入れには、こういった経緯があったのです。

1978年、家と家財道具を売り払いF3に参戦。
しかし、1979年、またもやレース中のアクシデントで脊髄を痛め入院。
その病床に、ロータスF1チームのオーナー、コーリン・チャップマンから電話が掛かります。
「君にテストに参加してほしいのだが、事故で負傷したそうだね?」ときくチャップマンに、マンセルは「事故にあったのは別人です」と語り、痛み止めの注射を人の6倍も打ってテストに参加。
結果は見事に合格、ついにF1のシートを獲得したのです。

’85年ブランズハッチのイギリス・グランプリでF1初優勝 妻ロザンヌと表彰台で抱き合うマンセル

期間としては短かったものの、これまで苦労に苦労を重ねて、ようやくたどり着いたF1。
ところがF1に上ってからも、マンセルの人生は順調にはいきません。
名門ロータスは、マンセルがデビューしたこの時期、かつてない不振にあえいでいたのです。

目立った成績もあげらないまま、1982の暮れにはマンセルの才能を高く評価してくれていたコーリン・チャップマンが死去。
これにより、ロータス・チーム内でのマンセルは、微妙な立場にたたされます。

そして、1985年、搭載するホンダ・エンジンがそのパワーを発揮しはじめたウィリアムズに移籍。
シーズン終盤、因縁のブランズハッチで開催されたヨーロッパ・グランプリでついに念願の初優勝。
表彰台で周囲をはばからずに妻ロザンヌと泣きながら抱き合うマンセルの姿が印象的でした。

この初優勝は、デビューから72戦目という、当時のF1ではもっとも晩い初優勝でした。苦労人ナイジェル・マンセルを象徴する記録ですが、つづく73戦目で2勝目を挙げ、ついにその才能を開花させます。

1986年、最速マシン、ウィリアムズFW11を手にしたマンセルは、チーム・メイトのワールド・チャンピオン、ネルソン・ピケに勢いで勝り、初のタイトルを決めるべく、最終戦オーストラリアに向かいました。
しかし、マンセルのチャンピオン決定がほぼ確実と思われたレース終盤、彼のマシンにまさかのタイヤトラブルが発生。王座はアラン・プロストの手に渡ってしまいました。

翌1987年。やはり一番速かったのはナイジェル・マンセルでした。
残り2戦、ピケとのチャンピオン争いを演じながら、F1が初めて開催される鈴鹿にやってきたマンセル。
ところが、予選初日、S字でスピンし、タイヤバリアに激しくクラッシュ。
背中を強打し、レースに参加できなくなったマンセルは、病院のベッドでチャンピオンを諦めることとなりました。

’92年 初タイトルを獲得したマンセルとウィリアムズ・ルノー

1988年は、ホンダがマクラーレンと新たにコンビを組み、最強エンジンを失ったウィリアムズは低迷します。
その結果、マンセルは1989年にはフェラーリに移籍。
その最初のレース、ブラジル・グランプリで優勝。マシンの開発も進み、シーズンオフにはアラン・プロストがチームに加入、万全の体制で1990年シーズンを迎えます。

ところが、プロストは得意の政治的手腕を発揮してチームを意のままに操りはじめます。
居場所を失ったマンセルは、この年限りでフェラーリを離れ、古巣ウィリアムズへ戻ることになりました。

かつてのホンダ・エンジンを失ったウィリアムズは、新たに強力なルノー・エンジンを搭載していました。
アクティブ・サスという新技術を搭載したシャシーの性能も非常に高く、1991年、ナイジェル・マンセルはマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナと激しくチャンピオンを争います。
そして迎えた鈴鹿での日本グランプリ。
チャンピオンを賭けてスタートしたマンセルは、レース序盤、1コーナーでコースアウト。
砂煙と共に、またしてもチャンピオンの夢は消えてしまいました。

プロスト、ピケ、セナと争い、そのたびに敗北し続けるという、辛い現実を突きつけられてきたナイジェル・マンセル。
数々の苦しみを踏み越えてここまで来たマンセルは、翌1992年も夢の世界チャンピオンを目指して闘います。

この1992年シーズンは、ウィリアムズ・ルノーの独壇場と言えるシーズンでした。
チーム・メイトのリカルド・パトレーゼを含め、マンセルに太刀打ちできるドライバーはなく。8月のハンガリー・グランプリで、ついに悲願のワールド・チャンピオンを獲得しました。

運も実力のうちとよく言われます。
そういう意味では、マンセルが過去、自分自身に失格の烙印を押さなかったことが、不思議に思えるほどの、冷たい現実の連続でした。
彼が経験した数々の困難の、どれかひとつでさえ、その道を諦めるのに充分な理由となったはずです。

表彰台のマンセル

通常、非常な困難とは、敗北の立派な言い訳になるものです。
周りも同情し、理解を示してくれます。「君はよくやったよ」と。
自らのプライドを傷つけることなく、良き敗者となれるのです。

逆境とは、ある意味で自分を辛い精神状態から開放し、夢を諦めることを正当化してくれる非常に魅力的なものでもあるのです。

ですが、その誘惑こそが、夢を追いかける人間にとって、一番の敵だと言えます。
マンセルは何度も、その甘くささやく敵に出会います。
首を骨折した時、家財道具を全て売り払った時、一度でも、たった一度でも、彼が夢を諦めていたら、この成功はありませんでした。

しかし、彼は最後の最後まで、決して諦めませんでした。
どんな逆境も、どんな挫折も、ことごとく乗り越えて来たのです。
マンセルは後に、これほどの困難を乗り越えて来られた秘訣を聞かれ、やや謙遜ぎみにこう答えています。
「おそらくそれは、たったひとつのことしか考えられない単純さだろう」と。

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