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ニキ・ラウダ - 意思の力

ニキ・ラウダ マクラーレンMP4/2
’84年 予選でタイミング・モニターの凝視するラウダ

F1で3度世界チャンピオンを獲得し、36歳で引退したニキ・ラウダは、F1ドライバーの中で、まぎれもなく傑出した存在でした。

並外れた精神構造を持ち、巧みなレース運びで数々の栄冠を勝ち得、人々から尊敬された彼は、その一方で、自己中心主義、傲慢、無愛想などと批判されることもしばしばでした。

ファンやマスコミが自分の領域に入ってくることを極度に嫌い、自分の仕事にのみ専念するラウダには、周囲を寄せ付けない人格的迫力があったそうです。

ところがラウダ自身が語るように、子供の頃の彼は、ひ弱で軟弱な少年だったというのです。
よく「意思の力」という言葉を口にしていた彼は、いったいどのような経験を経て、偉大なチャンピオンへと成長したのでしょう。

ニキ・ラウダ。本名アンドレアス・ニコラス・ラウダは、1949年、オーストリアのウィーンで生まれました。
生家は製紙工場を営んでおり、かなり裕福な家庭で育ちました。それだけに、過保護な環境でもあり、ラウダ自身が「子供の頃は柔弱でそれほど寒くない日でも首にマフラーを巻き、コートを着せられて頭にはオーストリアン・ハットをかぶせられていた。11歳か12歳の頃、歯の矯正のために歯医者に連れられて行った帰りに、市電の停留所で母と市電を待っていました。通りのマンホールをじっと見ていた。車がその上を通るたびにカタン、カタンとふたが鳴る。何度思い出してもこの思い出が気になるのは、立っている自分の姿に男らしさがなく、女々しい感じがすることだ」と告白しています。

後のラウダの精神構造を理解する上で、非常に重要なエピソードではないでしょうか。

そのラウダがレース活動を始めるのが1968年、19歳の時。
もちろん両親は反対しました。当時はレース中にドライバーが事故死することなど珍しくなかった時代なのです。それでも彼は、自らの意思を貫きました。

この頃、オーストリアにはヨッヘン・リントという天才ドライバーがF1界の注目を集めていました。
この容貌も性格もラウダと正反対のリントに、レースに熱中しはじめた彼は、自分自身の姿を重ね合わせていました。
1969年、ラウダはフォーミュラVに参戦し、優勝8回、2位6回という素晴らしい成績を残します。

翌1970年はF3にステップアップ。このアマチュアとプロを選別するカテゴリーであるF3で、ラウダは重要な経験をします。

デビュー戦と3戦目で大クラッシュを演じ、野望に満ちた若者たちの世界で挫折感を味わったのです。
5戦目は9月5日、ベルギーのゾルダー。
レース中に事故を起こしたマシンを移動させるためのレッカー車をよけようとして、何台かのマシンがスピンし、ラウダもこれに巻き込まれました。クラッシュし動けなくなったラウダのマシンの横を、後続のマシンがまったくスピードを緩めずに走り抜けていくのを、ただ恐怖とともに眺めていました。

この日、モンツァで行われたイタリア・グランプリで、ロータスのヨッヘン・リントが事故死。

自らの恐怖体験と、憧れだったリントの死・・・。そのふたつが重なり合ってラウダにのしかかり、彼のレーシング・ドライバーとしての決意を問いただします。

’72年 マーチからF1デビュー

この中で得たラウダの結論は、レースは続けるが、F3のような気違いじみたレースは無意味である、というものでした。
「死の恐怖から逃げ出したわけではない」とラウダは言います。「レースの恐怖感を拭い去ったわけではないが、改めてグランプリ・ドライバーへの道を歩むという自らの意思を確認できた」と。
その意味で、1970年9月5日という日はラウダにとって生涯忘れられない日となりました。

F3をあきらめたラウダは1971年、地元の銀行をスポンサーにつけ、マーチ・チームからF2を戦います。
チームのナンバーワン・ドライバーは天才肌のロニー・ピーターソン。しかし、ラウダは常にピーターソンより遅く、この年、チャンピオンを獲得したチーム・メイトに対し、ラウダは10位でシーズンを終えています。また、この年はF1オーストリア・グランプリにマーチからマシンをレンタルし、スポット参戦しました。予選は22台中21番手、決勝はリタイアでした。

1972年は同じくマーチ・チームからF1とF2の両方に出場。といっても銀行から借りた2千万円を持参金として持ち込んでの参戦です。

’73年 BRMに乗るラウダ

F2ではランキング5位を得たラウダですが、肝心のF1ではマシンの戦闘力に苦しみ、散々な結果でした。
1973年、マーチからBRMに移籍。このシーズンは成績よりも、クレイ・レガツォーニのチーム・メイトになったことが後に大きな意味を持ちます。
以前からフェラーリとコネを持っていたレガツォーニが翌年、フェラーリに戻る際にラウダを同行してくれたのです。

フェラーリ・ドライバーとして迎えた1974年。レガツォーニを上回る速さを見せたラウダは、スペイン・グランプリで初優勝。この年なんとポールポジション8回、優勝2回という驚異的な成績を残しています。
そして1975年。シーズン5勝を上げ初のワールド・チャンピオンに輝きます。

しかし、順風満帆なラウダの人生に、再び悪夢が襲い掛かります。

1976年、森の中の山岳コース、ニュルブルクリンクで行われたF1第10戦西ドイツ・グランプリ。
3周目にその事故は起こりました。1周22キロのコースの約10キロ地点の左コーナーで、ラウダのマシンはコントロールを失い右側のガードレールにクラッシュ。コース上にストップしたところに後続の2台のマシンがつぎつぎと突っ込み、コースは火の海となったのです。

ラウダは自力で脱出できず、それぞれのマシンを止め、救出に駆けつけたドライバーたちによって、なんとか助け出されました。
しかし、顔と手を炎にあぶられ、肋骨、胸骨を骨折、肺は有毒ガスを吸い機能が低下、出血もひどく、彼の生命はまさに消え去る寸前でした。

ニュルブルクリンクでフェラーリをドライブするラウダ

「病院ではかすかな意識はあったものの、苦痛のひどさにはもはや生きる気力もなく、ベッドに横たわっていた。苦しみを逃れ、死んだ方がましだった。そこにふとフィッティパルディの名前が聞こえてきた。フィティの名は私の頭脳を強く刺激し、私は状況を必死に考えようとした。妻が来て、ベッドに座り話しはじめた。彼女の声も私の気力を呼び起こした。そして、翌日には生き抜く意思を固めるまでに立ち直っていた」とラウダは後に語っています。

客観的に見て、ラウダが生きながらえることは出来ても、レースに復帰することなど不可能に思えました。
ところが、それからわずか42日後、イタリア・グランプリが開催されるモンツァ・サーキットにラウダの姿はありました。
顔の右側にはケロイドの痕も生々しく、頭にはまだ包帯が巻かれていました。

あきらかに完全ではない状態でした。
なのに彼はなぜサーキットに現れたのでしょう?
ラウダは言います「事故の恐ろしさは、ひどくこたえた。だが、その後に大きな影響を与えたわけではない。事故のショックで精神的にダメになるようなことは自分自身で許せなかった。恐怖心を抑制するのは意思の力だ。意思の力は強くすることが出来る」。

’84年 通算3度目となる世界チャンピオンを獲得

驚くことに、彼は事故後すぐ、レース復帰を決めていたのです。
ラウダは続けます「肉体的には、いつかレースが出来る状態になるだろう。しかし、精神的にレースが出来る状態になることは別だ。恐怖心を消し去ってレースが出来るようにするためには、思い切って早めにレースに出場することが最良だと考えた。レースに復帰するのは早ければ早いほどよい」
自分の精神や感情を、まるで自分以外のものであるかのように客観的に分析するラウダは、自らの論理を自らに適用するために、強い意志の力を必要としたのです。

モンツァ・サーキットにいる彼は、まさに自らの感情を意思の力でコントロールした男の姿でした。
とはいえ、身体が本能的に感じる恐怖を完全に払拭することは出来なかったようで、雨の予選初日には「恐怖でコチコチになり、ウンチがもれそうだった」とも告白しています。
しかし、その恐怖をも、意思の力で克服し、このレースを見事に4位で走りきったのです。

確かにラウダは、超人的な精神の持ち主であり、すべての人が彼と同じことが出来るわけではありません。しかし、困難を克服するのはその人の意思の力であり、意思の力は鍛えることが出来る。という言葉は参考になるのではないでしょうか。

また彼はこうも言っています「自分の中にいる負けようとする自分、負けるために言い訳を探している自分を逆に叩きのめさなければならない」と。

ニキ・ラウダはこの後も波乱の人生を歩み続けます。
1979年にはレース・ウイーク中に、ヘルメットとレーシング・スーツをピットに脱ぎ捨て、突如引退。航空会社を設立し社長に就任するという、凡人には理解出来ない行動で、周囲の批判にさらされたりもしました。
しかし、ラウダが周囲の批判など気にしている様子はありませんでした。彼は徹頭徹尾自分の考えと、それを意思の力で実現出来るということを信じているのです。

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